犬養毅

「話せばわかる」
 押しかける青年将校を前に悠然たる態度で首相犬養毅は語りかけた。
 だが、民主主義・政党政治の最後の砦となっていた老政治家に、青年将校たちは、問答無用とばかりに至近距離から7発の銃弾を発射した。五・一五事件。それは日本が大正デモクラシーの時代から暗い昭和の軍国主義の時代に走り出した瞬間でもあった……。

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 岡山市での内科学会生涯教育講演会への参加がてら、犬養毅の生家と隣接してある犬養木堂記念館に立ち寄ってみた。

 犬養毅は、1855年(安政2年)4月20日に、備中国庭瀬村(現在の岡山市)に生まれた。5歳から父に漢学を学んだことが後年の彼の漢詩や書道の素養となった。
 17歳で小田県庁(岡山県笠岡市)に勤務した頃から洋学思想に目覚め、20歳で上京し、翌年慶応義塾で福沢諭吉の指導を受け、生涯の方向が決まった。在学中「郵便報知新聞」から西南戦争の従軍記者として派遣され、その現地ルポ「戦地直報」で文名があがる。
 明治13年(1880年25歳)に「東海経済新報」を創刊、自由主義経済学者田口卯吉との経済論争により経済学者としての犬養の名は天下に轟いた。自由放任こそが国家の最良策であるとして、どの国にも自由関税貿易は適用できると田口が論じたのに対して、国体の違う日本にすぐに自由関税貿易を適用することは国益に反するとして犬養毅は保護貿易を唱えたのだった。その後、「秋田日報」主筆、「郵便報知新聞」、「朝野新聞」とジャーナリストとして渡り歩き、明治23年(1890年35歳)に第一回衆議院選挙に初当選し、本格的に政治家の道を歩むこととなった。
 代議士となってからの犬養は、立憲改進党、立憲国民党、政友会等に所属、一貫して政党政治の確立と普通選挙制度の確立に尽力し、尾崎行雄とともに「憲政の神様」といわれることになる。犬養は儒教に淵源する「理想」をもった政治家であり、この理想を実現するために終始一貫した主義主張をもち、長い間の逆境にも、清節を持して屈するところがなかった。その反面人間的な情味もあり、それは国内ばかりでなく国外にも及び、中国辛亥革命(1911年 明治44年)の前後には数多くの亡命者を庇護、孫文ら辛亥革命の指導者たちを支援し、親交を深めている。
 彼は経済的軍備や産業立国を主張、軍事費による財政圧迫を避け、産業を興すことで国を豊かにし、世界の中の日本として生きていくことを唱えた。
 昭和4年(1929年 74歳)10月、政友会総裁に就任、昭和6年12月内閣総理大臣に就任した犬養は内閣を組織し満州事変の収拾にあたったが、軍国主義の高まる中、翌昭和7年5月15日、首相官邸において、海軍青年将校の凶弾に倒れた(5・15事件)。

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 ……岡山駅から山陽本線に乗って庭瀬駅で降りると、駅前に犬養木堂生誕の地との看板が見える。古びた田舎町だが、憲政の神様を生んだ郷土の誇りが感じられる。タクシーに乗って犬養毅の生家へ向かった。細い田舎道を通り抜けると江戸時代に建造されたという古びた庄屋屋敷に着いた。犬養毅の生家は国の指定重要文化財となっている。
 生家から小川を隔てて建てられている犬養木堂記念館に入ると彼の生涯の事跡が概観できる。録音された彼の肉声が印象的だった。総理大臣に就任したときの演説であり、落ち着いた諄々と諭すような口調はその人柄を偲ばせる。軍人官僚主義の前に崩れ去った政党政治の良心。形を変えて現代にまで生きながらえてきた官僚内閣制という日本の政治風土は、新政権の下で犬養毅が求めてやまなかった政党政治の原点に立ち戻ることができるのだろうか。犬養毅が現代に生きていたとするならば、どのような演説をしてくれるだろうか。歴史の転換点に来たいまの日本の道標となる政治家の生き様がそこにあるような気がした。

(2009.10.4)

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『タナトスの宴』

命の尊厳。
人はどう人生を終えるべきか?

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文芸社 10月新刊
処女作『母の影』を合本して出版。

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適塾

「適塾」
 という、むかし大阪の北船場にあった蘭医学の私塾が、因縁からいえば国立大阪大学の前身ということになっている。宗教にとって教祖が必要であるように、私学にとってもすぐれた校祖があるほうがのぞましいという説がある、その点で、大阪大学は政府がつくった大学ながら、私学だけがもちうる校祖をもっているという、いわば奇妙な因縁をせおっている。 ……司馬遼太郎『花神』より

 大阪での学会の帰り、「適塾」へ立ち寄ってみた。史跡・重要文化財に指定されているが自由に参観することができる。
 明治の文化・文明に多大な影響を与えた「適塾」は、幕末に洋学研究の第一人者と仰がれた緒方洪庵が開いた学塾である。洪庵はすぐれた蘭学者・医学者であったばかりでなく、後世に名を成した幾多の傑出した人物に影響を与えたすぐれた教育者でもあった。
 大村益次郎と福沢諭吉、「適塾」に学んだこの二人の天才は、緒方洪庵の思想が政治と学問の世界で咲かせた大輪の華といえるだろう。この二人に共通する心性は科学的合理主義である。これこそ緒方洪庵が門生に説いた思想の真髄だった。「適塾」における教育の中心は蘭書の会読であったが、蘭書の文字の奥に潜む広大な西洋合理思想が江戸幕藩体制の硬直した精神主義を打ち破っていく。やがて大村益次郎は近代陸軍の創設者となり、福沢諭吉は教育と著作活動により意識の近代化に貢献をしていくことになる。

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……地下鉄御堂筋線の淀屋橋駅を出、北浜のオフィス街を通り抜けていくと、ビルの谷間に突然古い町屋敷が現れる。塾主洪庵とその家族が住んだ居住区と狭い中庭を隔てて二階建ての塾舎がある。通りから見ると塾舎はその背後にある巨大なビルに圧倒されていかにもみすぼらしい。狭い中庭に入ると、塾舎を背に緒方洪庵の銅像が建っており、ここが「適塾」であることを知らせてくれた。
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塾生が暮らしていた塾舎の二階に上がると、女中部屋から塾生大部屋へ行く間にあの有名なズーフ部屋がある。ズーフ辞書は長崎出身のオランダ商館長ズーフがハルマの蘭仏辞書に拠って作成した貴重な蘭和辞書であり、塾生が奪い合って使用したその情景は、幕末もののいろいろな小説の名場面となっている。

塾生大部屋には門下生の自筆による姓名録が置かれており、塾生は日本全国から集まっていたことがわかる。福沢諭吉の『学問ノススメ』写本も残されており、当時の教養人の文化の息吹が伝わってくる。

この小さな塾舎から、よくぞあれだけの天才たちが生まれ出たものだと思う。明治の大変革に人生をかけて乗り出していった偉人たちの青春の残り香が今でも「適塾」には息づいている。


(2009.3.29)

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靖国神社

 地下鉄九段下駅を出、階段を上がると、前方に鬱蒼とした杜と巨大な鳥居が見える。高さ25メートルもあるその大鳥居の下に来ると眼前にこれまた巨大な銅像が迫ってくる。靖国神社の前身東京招魂社建立に奔走した大村益次郎の銅像だ。この銅像が靖国神社の起源を体現している。戊辰戦争の新政府軍側の戦没者を祀ったことが靖国神社の始まりだった。新政府側の戦没者の慰霊として始まった東京招魂社は明治12年、慰霊のための神社としての体裁をとるために靖国神社となった。宗教的慰霊のためには神官を置く必要があったからだ。こうして近代的な戦没者慰霊施設が誕生したのだった。

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 だが戦後、この慰霊施設は新憲法の下で新たな課題に直面する。政教分離の原則のため一民間施設として出発することを余儀なくされたからだった。国のために命を捧げた英霊に対する追悼施設を一民間神社が担うという形になったことは、その公的性格に暗い影を残した。併設されている遊就館という軍事博物館も議論を呼ぶことになった。なぜなら靖国神社の存在の思想的意義を具体的に表現したものが遊就館だったからだ。
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 靖国神社拝殿に向かって右手、参集殿前の木立を距てて白亜の建造物が立っている。戦争史または軍事博物館である遊就館だ。ここには幕末・維新当時からの戦没者の遺品、戦争に関する歴史資料、古今の武器類を集め展示している。だが、なんといっても祀られている御祭神246万6千余柱のうち86%を占める太平洋戦争(靖国神社では大東亜戦争と呼ぶ)での戦史資料が靖国神社そのものの歴史観を示している。一貫しているのは先の戦争は自存自衛の戦争であり日本が避けて通ることができなかった戦争であったという考え方だ。そしてもう一つの思想の柱が天皇を頂点とする国体護持の歴史観だ。この二つの思想が合体し、靖国戦争史観というものが遊就館の展示を通して色濃く反映されている。
 戦後民主主義教育を受けてきたものにとって靖国神社は確かに違和感がある。現代に突然、戦中・戦前の亡霊が立ち現れてきたような違和感だ。この違和感こそが靖国問題を巡る一連の論争に対する一般国民の自然な感情なのだと思う。靖国神社に残されている純粋に日本的なものをどのようにして国際化した現代日本の価値観に位置づけていくかが日本人に残された今後の課題なのだろう。先の戦争を各自がどのように評価するか、私たちが生きている現代日本の中で天皇制をどのように位置づけていくか、靖国神社は、この日本人の前に立ちはだかる根本的な問題をこれからも絶えず私たちに突きつけていく存在であり続けることは間違いないだろう。

(2007/10/21)

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ヒロシマ

 ヒロシマ……。
 カタカナが似合う都市である。

 JR広島駅を降りると、眼前に大小雑多なビル群が立ち並ぶ。日本のどの地方都市にもみられる風景だ。そこには62年前の悲惨な光景をうかがわせるものは何もない。
 駅前の停車場から路面電車に乗る。真向かいの席に長身の金髪の外国人夫婦が腰掛けている。それが世界に開かれた広島の窓をかすかにうかがわせてくれるような気がした。

 1945年8月6日、人類史上初の原爆被災を経験した都市。その傷跡を窺わせるものは今、原爆ドームと平和記念公園、平和記念博物館のみである。
 原爆ドームを横目に見ながら平和記念公園へ足を向ける。外国人の姿が多いのに気がつく。ここは人類の愚かさの象徴として世界の人々が集まってくる巡礼の地であるのだろう。人類史の中で初めて現れた大量破壊兵器、原爆が畏怖されるのはそれが人類の終焉をもたらす最終兵器であることを世界中の人々が知っているからだ。その被爆を経験した人類最初の地、それが広島を世界の人々の平和の祈りの象徴としているのだろう。ヒロシマは日本ではない。人類の祈りの地である。

 アメリカが原爆投下の決定を下したのは先の戦争を早期に終結させるためだといわれてきた。両国の戦争被害をこれ以上増やさないため、トルーマンは決断したとされる。政治家である彼の心には、ヨーロッパ戦線の戦後処理で思わぬ介入をしてきたソ連の姿があったであろう。太平洋戦線を早期に終結しなければ日本の占領政策でアメリカの主導権に介入されることを恐れたに違いない。いずれにしろ彼の心に被爆の対象となる日本国民の姿は浮ばなかっただろう。それは戦争だったのだから。
 では何故広島の人々は過酷な運命を引き受けなければならなかったのか?それは端的に日本人だったからだ。アメリカの戦争相手国の国民だったからに過ぎない。国家と国民とは戦時には同じものなのだ。個性のある人間はなく、日本の国民ということがすべてとなる。広島の受けた受難は日本人誰にでも起こりうることだったのであり、これからも世界の人々が経験する可能性のある受難であり続ける。その意味でヒロシマは人類普遍の問題となる。人間がいかに愚かな存在であるかを後世に伝える証人なのだ。
 ヒロシマはこれからもHIROSHIMAであり続けるだろう。なぜならヒロシマは人類の終焉を予感させる警告なのだから。

(2007/10/14)
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小説『タナトスの宴』

自らの助言により、兄を医療事故の犠牲者としてしまった医師澤村。
心労の中、彼はまた、安楽死殺人者としてマスコミの標的とされていく。
患者家族として、医療者として、二重の苦悩の中で彼が選択するものとは……。
医療現場で際会するさまざまな死を通して、現代の臨床医の実像に迫る。

鷹泊太子郎 『タナトスの宴』 

thanatos

小説『母の影』

母がいなくなる!
少年の心を襲う別離の恐怖。
家庭崩壊の中で呻吟する子供と大人の心の闇を描く。

鷹泊太子郎 『母の影』 

haha